居合神社の由来

一、由緒・沿革

 本社略縁起に依れば、大同二年(八〇七年)林崎地区の東方石城嶽の大明神沢の岩窟に熊野権現が祀られ、後旧荒宿村に降神、熊野堂として石祠に祀られた。
 熊野権現は永承年中(一〇四六年)から正安二年(一三〇〇年)の間に当地に遷座され、歴史変遷と共に尊号を「熊野明神」と改め、地元民に祖神として崇敬信仰された(祖神・熊野神社の草創)
 天文年間に抜刀(居合道)の祖・林崎甚助源重信公が祖神「熊野明神」に祈願参籠し修行に励み、祖神「熊野明神」より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥旨を神授され、京にて見事父の仇を討ち本懐を遂げた。
 後世、その英霊を思慕し、崇めて重信公を神格化「居合明神」として祖神「熊野明神」の境内の一角に祀った(居合神社の草創)
 明治の神仏判然令に伴い、祖神「熊野神社」に「居合神社」を合祀し、明治十年(一八七七年)明治政府に公認され「熊野・居合両神社」の正式神社名となり今日に至る(神社庁登記神社名)

二、林崎甚助源重信公略伝

 天文七年(一五三八年)浅野数馬源重治(浅野刑部太夫源重成・重康)楯岡城・六代城主「最上因幡守満英」に士官したと伝えられている。
 浅野数馬源重治は、京で尉北面の衛士であった(朝廷に仕える近衛の武士)
 天文十一年(一五四二年)抜刀(居合道)の祖・林崎甚助源重信は父、浅野数馬源重治と母、菅野(志我井)との間に生まれ、幼名を「民治丸」と言った。
 天文十六年(一五四七年)父、浅野数馬源重治は、祖神・熊野明神の祠官の許へ碁を囲みに行き、夜更けて帰る処を如何なる理由で恨みをかったのか、坂上主膳(坂一雲斎)に闇討ちにて暗殺された。爾来、浅野数馬源重治の一子、浅野民治丸と母、菅野の仇討ちの苦難の道が始まった。
 天文二十三年(一五五四年)浅野民治丸十三歳の時、仇討ちのため剣法の上達を祖神「熊野明神」に祈願参籠し修行に励む。
 弘治二年(一五五六年)浅野民治丸、祖神「熊野明神」より「神妙秘術の純粋抜刀」の奥旨を神授される。
 永禄二年(一五五九年)浅野民治丸十八歳、更に研鑽を積み「純粋抜刀」の至妙を悟り開眼。元服して村名の林崎を姓とし「林崎甚助源重信」と改め仇討ちの旅に出る。
 永禄四年(一五六一年)重信二十歳、京で宿敵、坂上主膳(坂一雲斎)を討ち果たし見事本懐を遂げた。直ちに帰郷、祖神「熊野明神」に礼参報告し信國の刀を奉納す。爾来、重信は純粋抜刀を「林崎流」と号した。
 永禄五年(一五六二年)重信、母、菅野に孝養を尽くせども、母病にて死す。重信、飄然、孤剣を抱いて二首の歌を残し旅に赴く。
 廻国修行に伴い、各地で門弟を育成し「純粋抜刀」を拡め、抜刀(居合道)の基礎を確立した。
 尚、重信の最晩年の足跡、没年、没地については、諸説はあれど史実に即した資料はなく、解明調査の限りを尽くせども未だ判明せず。

三、石仏

 林崎から約五百メートル南の西大旦に、苔むし、風化のため刻字も定かでなくなった一基の墓石があった。土地の住民達からは、古くから重信の母の墓といわれ、石仏として崇められ、お詣りされていた。恐らくは永禄五年(一五六二年)重信が両親の供養のため建てた墓石であろう。
 明治二十八年(一八九四年)現・山形県立村山農業高等学校の前身である簡易農学校が創立。翌年、西大旦の墓所も校地の一部となり、明治三十年(一八九六年)新校舎建築の際、三百三十四年を経た石仏も、由来を知らぬ石工達によって、校舎の巡り石の一部に使用されたという。
 昭和五年(一九三〇年)校舎の再建に当たり、石仏の墓石を探し旧墓跡に埋めその上に新たに石仏を再建して供養した。
 明治二十九年(一八九五年)までは、重信の母の墓石は昔のままの姿で実在していたのである。この史実は重信が林崎の地に生を受けた証である。
 昭和三十七年(一九六二年)畜産科の新設にあたり、石仏は玄関通路入り口西の花壇のそばに移された。

平成三年三月吉日

財団法人「居合振武会」
林崎勘助源重信公資料研究委員会
文責 資料研究委員長 滝本 浩
文責 資料研究員 高木聖剛